このサイトは、ページの最後に成功者名を載せています。成功した現在ではなく、過程(人生)に興味を持っていただきたいからです。どうしても、先に成功者名を知りたい方は、ページの最後からお読みください。
今回ご紹介する方は、世界で展示を行うなど芸術を体験に昇格させた実業家、アーティスト集団の代表です。
最初から社長になろうと思っていたわけではなく『友達とずっと一緒にいたい』という、純粋な思いからでした。
【小学生時代】
開業医の(歯科クリニックを営む)家庭で育つ。
〈エピソード〉
周りの子は将来の夢をサッカー選手やお花屋さんと言ったが「簡単にプロになれるのか、花屋になって何が楽しい?」と思うような現実感あふれる子供だった。将来の夢もなく自分はクリニックを継ぐのだと考えていた。
よく友達と遊びのルールを作り、階段をつかったリアルインベーダーゲームや、応接間ではワニさんゲームなどをして遊んだ。また、ひとりになったらずっと絵を描く子供だった。
【中学生時代】
公立の中学校が荒れていたので、国立大学の付属中学へ進学。
〈エピソード〉
小学校時代は成績が3段階評価の真ん中だったが、数学が得意なため何とか希望の中学校へ進学することができた。
単純な算数問題をコツコツ事務的に解くのは苦手なため、小学校での成績は普通だった。逆に難しい算数問題ほど得意になるタイプだったため中学受験には合格できたと言う。
【高校時代】
友達に「将来会社をつくるから一緒にやろうよ」と声をかけていた。
〈エピソード〉
あるニュースを見て、有名な一族は、三代続けて婿養子が東大卒だと知り、逆玉狙いで東大に行くことに。
やりたい仕事はないけれど、大学を出たら働かなきゃと考えていたときに「世界の時価総額ランキング」を目にする。平成元年には日本企業がランニングに名を連ねていたが、平成最後では日本企業が1社も入っていなかった。そのため、日本から人類の価値観を少しでも広げるようなものを作りたいと考えるようになった。
【大学時代】
東京大学に入学。1年間アメリカに留学後、工学部応用物理・計数工学科に進学。
〈エピソード〉
ネットの普及で世界に情報を発信できると考え同級生の青木俊介、幼馴染の吉村譲など仲がいい友人5名でチームラボを設立する。
大学時代、朝起きれなかったため就職会社説明会などに参加できず就活を断念。しかし、チームラボの活動は継続して行えている。
【1度目の起業】
チームラボを正式に有限会社チームラボとして起業。
〈エピソード〉
事業プランや創業資金もなかったが、デジタルで好きなことをやると決めていた。
独りでは大きなことは成し遂げられないと考え会社の名前を「チームラボ」に。ソフトウェアもハードウェアも進化のスピードが異常に速いため、専門家たちとチームで何かを生み出すためのラボをつくろうと考えた。
【創業当時】
売上を上げるために料理教室のオンライン予約システムなど、Webサイトの受託開発・運用案件を必死にこなす。
〈エピソード〉
サイト設計を15万円で請け負ったり、とにかくみんなで必死に仕事をした。請け負った仕事の業界知識や良いWebサイトの基準も分からなかったが、みんなで最高のクオリティーを出そうと徹夜しながら開発に明け暮れた。
企業運営で目標の優先順位について、普通は中長期計画やマーケットなどそれぞれに目標の優先順位がある。しかし、順位が複雑になると他の会社では衝突が見られた。そのため、チームラボは「クリエイティブなことをやる」のただ1つを目標に掲げ、チームとして動いている。
【事業】
日本の検索エンジンとして「サグール」を開発。産経新聞のニュース・ブログポータルサイト「iza!」を開発し反響をえる。
〈エピソード〉
企業・製品・サービスは、その存在自体が、“人がアート的だと感じるようなもの”でないと生き残れない社会になると考え、様々なサービスを発信。
現代のマーケティングについて「誰でも一瞬で情報を獲得できる時代、何かヤバイもの作ったら勝ち、超ヤバイものを作ったら勝手に流通する」。超ヤバイ(勝手に流通する)ものをつくれるのは、テクノロジー(情報技術)とクリエーティビティ(文化的創造性)をもつ専門人。チームラボでは専門人が重要だと話す。
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